明日から新年度
いよいよ春本番の気候になって来ました。
早いもので3月も今日で終わり、今年ももう4分の1が過ぎたんですよ!早すぎます。
明日からは4月始まりの新年度スタート。
週末になるので世間的なスタートは週明けの4月3日からと言う感じになるのかな?
今月半ばに確定申告が終わって税金の支払いも終わった時点で僕の気持ち的には新年度はスタートしているんですが、今年は少し節目になった年でもあったので作業をしながら一回振り返っておきたいと思った事があったので文章を書き始めた。
僕がタマタマルアーを作り始めたのは1996年。
まだ自分のオリジナルルアーだなんて話じゃ無くて、工作みたいなレベルのルアーを作ったモノにふざけてブランド名を作った程度の事だった。
その頃は何を勘違いしてたのか?ってくらいの20代前半で何か面白い事を自分は出来るに違いないなんて思ってはしゃいでたと思う。
その先の人生でまさか自分の未来がタマタマルアーだなんて微塵も思いもせず。
釣りが好きで音楽が好きで洋服が好きだったから釣り具と洋服の店をやってた。
貯金なんて無いから自分の乗ってた車を売って、それまで勤めてたサーフショップの繋がりの信販会社のフリーローンで借りれる限界まで借金してお金作って。
釣りが好きだからって釣具屋なんてした事無いから当時は電話帳や雑誌で釣具の卸問屋を探して「釣具屋やりたいです!釣具売って下さい!!」ってな無謀な突撃問屋訪問で、、
そして、釣り具の仕入れ先を決めてから残りのお金持ってアメリカに洋服の買い付けにしばらく行き、地元には無かった洋服を頭悪いくらいの量ハンドキャリーで持ち帰った。
若くて頭悪くて勢いだけ凄かったから、とにかくせっかちで考えると同時に動き始めなきゃ勿体無いって思う無鉄砲さだった。
まあその無鉄砲さは今も自分自身を苦しめる僕の悪い性分として治っていないですが。
釣具屋をしてるのに自分が好きな物しか仕入れない、って言うか売り上げとかどうのより自分が楽しい事にしか興味無かったからオールラウンドの商品を仕入れてたのにトップウォーターやり始めたら途端にトップウォーターの製品を扱いたくなって方向転換しようと思っても当時の人気ブランドのルアーは抱き合わせ販売で高額でショップが売ってたりって具合だったからそうそう仕入れれず。
売るもん無いからって作り始めたのがタマタマルアーだった。
まあ何ともこれまた出たとこ勝負の商売だ。
店のバックヤードで雑誌のルアーの作り方の記事見ながら木削って、それに書いてある方法で塗装をして、乾かして売る。
まあそんな事が店の売り上げになる程の事も無く、ホントにせいぜい見よう見まねで作ってた程度の話。
今みたいにネット検索なんて無い時代だったし、何なら携帯電話なんてまだ一般的じゃ無くてポケベルなんて時代だったし。
そんな行き当たりばったりの生活の僕だから店はすぐに辞めてしまった。
借金まみれのままのくせに彼女と結婚したいから土建屋でもなろう!!ってこれまた頭の悪い体が丈夫な勢いだけの22歳高校中退男子の無鉄砲な人生計画で。
そして1998年にめでたく今の妻が彼女から妻となり、申し訳ない話だけど共に借金を払う人生に。
結婚するまでに妻のお母さんからは随分と反対されたし心配しかかけなかった。
今自分が親の立場になって考えれば自分の娘が借金まみれと結婚するなんて話を大歓迎なんて到底出来っこないから反対されるなんて当然だ。
そこからは土建屋の僕と妻との共働きで借金を返し、2001年に長男が生まれてと言う流れになっていたんだけど、その間、店を畳んでからもずっと道具だけは揃えてたもんだからルアー作りだけは仕事の合間に続けてて、それこそ昔ブログにも書いた現・ブライトリバーの松本さんとの出会いの場「道楽時代の松本さん」のおかげでタマタマルアーは工作レベルから本格的にオリジナルルアーを製作する時代に入ってました。
それこそ実家の庭の古い茶室を工房にして、仕事に行く前に毎朝5時半から7時まで、仕事終わったら毎晩9時から2時3時までルアーを作ってたりって言う時代です。
1990年代終わりから2000年の始まりはハンドメイドトップウォーターも本当にすごい勢いで、今のキャンプブームみたいにインディーズブランドがわんさかの時代だったので、そりゃ寝る間を惜しんででもって言う時代だったし。
今との唯一の違いは個人のネット配信なんてモノが無かったから雑誌に掲載されるとか、有名ショップさんに取引してもらうってのが販売の唯一と言っていい生命線だった事かな。
まあその時代の事は以前も話したので割愛して、節目となる写真の中の建物の話に。
前置き長すぎてここまでどのくらいの人が読んでくれてるのかは分かりませんが、それでも話を進めます。
息子が生まれた2001年3月から2年弱の2003年1月に最初の写真の緑の家を新築で建てた。
それまで僕らは実家の2階で暮らしてたので、家の敷地に新たに離れ的に家を建てる事にしたんですが、当時は僕も妻も正社員で会社務めだったから多くは無いなりにも住宅ローンを組めるくらいの収入はあったもんだから小さな離れをリフォームローンで10年とかで払うなら、水回りを揃えた新築一軒家を建てて新築ローンを20年の方が支払い少なくて楽だという事になっての決心だった。
当時僕と妻は27歳。
田舎だから、若いのに実家あるのに新築建てるなんてよっぽど贅沢だと言われただろう。
それでも僕らは頑張って働いてちゃんとお金が払えると思って胸をはっていた。
実際昔の作りの田舎の和風住宅は客間が広くて部屋数が無いから子供部屋なんて作れなかったから子供の為には必要だったと思うし。
そして2005年には娘も生まれて本当に家建てて良かったとか思ったのも束の間、当時小泉政権のあれこれで公共事業の大幅削減で僕が勤めていたような小さな下請け土建業者は仕事が激減で給料がいきなり25%くらいカットになった。
その後も給料は減り、やがて会社は廃業、その次に紹介で移った先の土建業者も10か月後に廃業・・・
年度末の3月まで仕事が忙しくても4月~8月までは小さな現場を小人数で回すってのが普通だった土建業界で春に職を失うのは致命的な状況だった。
しかも、1年弱で2軒の廃業だったもんだから2軒目に行く時に支度金を貰ってた僕は職安からほとんど給付金も出なかった。
住宅ローンもまだ払い始めて3年ちょっと、息子が小学校に入学する年にいきなり僕は無職になった。
職安に通ったりつてを頼って色々建設業を探したけどどこも秋までは仕事が・・・って断られ。
共働きだったから娘も保育園のまだ未満児だったし、実家の僕の両親もまだ働いてたので子供2人を見て貰う事も難しかったのでとりあえず生活するためにはそれまで副業と言ってもルアー作って材料費作る程度だったルアーを何とか少しでも沢山作ってお金にするしかたちまちの方法が無かった。
とにかく仕事見つかるまで、せめてルアーとバイトしてでもって。
そして徐々に生産を安定させて何とか食いつなげる様になった頃に茶室工房では手狭になって今の工房(3年前に火災に遭った工房)を運転資金と合わせて借入して作った。
この時借入したお金も結果的に当時販売のトラブルで半分無くなったから工房の製作費用が何とか払えた程度の事になって無くなってしまったんだけど。。
何とかかんとかって生活をしてた所に、妻も仕事を変わる事になってそこからは本当にずっと何とか支払いをするのに必死の生活が続いた。
2007年から本業のルアー1本になり、2008年から今の場所に工房を移し、沢山の方に支えて頂きながらも何度ももう無理なんじゃ無いかと思う様な色んな時期を乗り越えて遂に、僕等には凄く凄く長く思えた20年のローンがこの度無事に完済出来ました。
この20年間、僕がこんな人生を選ばなければ家族はもっと沢山の楽しさを得れたんじゃ無いだろうか?
趣味を趣味として仕事なんかにしなければ、もっと現実的であればもっと違った幸せを得れたんじゃ無いだろうか?と自分勝手な後悔を繰り返す事も多かったし、きっと妻もギリギリの生活の中で子供たちにしてやれない事の多くを悔やんだ日々が多かったと思う。
僕が遊びを仕事にする生き方をした事で家族には本当に苦労をかけたし、今もかけてる。
けれど、僕達家族はタマタマルアーを通じて応援して頂いた、頂いてる本当に沢山の方達のおかげで家を守り子供達を育てる事が出来ました。
ルアー1本にした時、何とか次の仕事を見つけるまでは!と思い、そしてやがて息子が小学校を卒業するまでは、息子が中学卒業するまでは、娘が小学校を卒業するまでは、息子が高校卒業するまでは、成人するまでは、そんな目標が一つ一つ達成される度に嬉しさと共に家族に充分な事を出来なかった申し訳なさが重なった。
そして今回家のローンが終わり、新年度から娘が高校3年生になりいよいよ進路を決める事になる。
子供を社会に出したからと言って父親の勤めが果たされる訳では無い。
けれど、僕の今の目標は必ずタマタマルアーで娘を社会人にしてやりたい。
何をそんな目標と笑われるかも知れませんが、今年48歳の僕の人生の半分近くをルアーを作り続けて皆さんに届ける。
そうやって作り続けれるのも応援し続けて貰えるのも本当に当たり前では無く奇跡なんです。
会社に勤めてたって仕事が出来ればお給料は貰えるけど、会社が無くなる事だってあるし色んな都合で給料貰えなくなる事だってあるんですよ。
それが僕みたいに生活用品でも何でもない、趣向品の中でもかなりニッチなアイテムを作って続けれるって事がどれほどの事か!!
本当に感謝しか無いです。
ここまで読んで頂いた皆さん、そしてここまで飛ばしちゃった皆さんも、本当にありがとうございます。
これからも宜しくお願い致します。
家のローンは終わったとは言え、2020年の工房火災で仕事的にはまた大変な借り入れが増えてしまったのがかなりの痛手ですが、それも元気でコツコツと頑張るしか無いので、新年度からはパワー全開頑張ります!!
と言う、長々作文お付き合いありがとうございました。